『女が会社で』 辛淑玉
女が会社で
辛 淑玉
とても読みやすい本だった。
というのも、近頃女性問題系の本を読んでいるから。
に加えて、この本は理論的ではなく実質的で、遙洋子の本をもっと楽にした感じ?
著者は在日韓国人+女性ということで、かなり働く上で二重苦!ってな具合。
だからこそ、よりやわらかく、そしてより切実に伝わってくるのかも知れない。
あとがきに書いてあることにすごく共感した。
私が働く女性を支持するのは、社会との関係を気付くというだけでなく、どんなに少ない金額であれ、自分で自由にできるお金を持つことが心も自由になることにつながると思うからだ。
さらに、自立できる経済力を持つことは、男(他人)の経済力に依存しないことで、「男」の価値を経済力で判断しなくなるということでもある。
自由になる、ということは本当に大切なことだ。
私がフィリピンに行き、出会ったアエタの人々はフィリピンで使われる言語を知らないがために生きる自由を失っていた。
たかが言語でも、たかがお金でも、それを持たない人々に与えられる暗い闇と束縛感、そして嫌悪感(その文化の中に溶け込めない人々は、それだけでしばしば自分を卑下する。)は非常に大きなものだ。
アエタの人々に教育を与える機関を作ろうと私たちはした。だけど、私はその必要性がこころからはわからなかった。あの時。
なんだか社会的な“良い人”になるための感覚では、教育を受けられる場所をつくろう!って思ったのだが。果たしてそれは、他人事だった。
それを、後々日本に帰ってから勉強会に出て考えてみた。
そのとき、私に説明してくれた人がいた。自由のなさの苦しさを。
彼女は字が読めなかった。
戦前に生まれて、教育を受けることのできなかった彼女は、字を読めないことで、さまざまな困難に出会った。
日本では読み書きできることが普通とされていて、何もかもがわかりにくい。
彼女は子供を育て上げて、そして時間が空いたついこの間になって、文字を勉強し始めた。
そして彼女は文字を得て、自由になったと感じた。
何でもできる。人の手を借りずに。人に助けを求めなくてもすむという喜び。人に助けを求めることによって感じる劣等感を味わあなくてもすむという喜び。
やっと私は文字のない不自由をこころのそこから理解できた。
そしてその会で他の女性が女性である不自由を語った。
彼女は山登りが好きだった。 だから、さまざまな山に登ったが、女人禁制の山に、入れてもらえないことがあった。
とてもきれいだという景色を見れない。
いけない場所があるという悲しさ。入れる人もいるのに。それは、男というだけの理由で。
なんという疎外感!自由のなさ!そして自分が下等な人間だと宣言された瞬間!
自由になるということはとても大切なことだ。
それによって自分を卑下せずにすむし、それによって不自由な部分で人を判断しなくてすむ。
何ものからも自由になりたい。
それはきっと無理。
だけど、できるだけ大きなものからは自由になりたい。
そしてそこから自由になる方法は、自分がそうなりたいと叫んで行動していくことだけ。
いつまでも支配構造はなくなりはしない。だけど、より大きなものからは自由になりたい。
君主の支配から抜け出て、奴隷から自由になり、人種の差別から自由になり、生まれた場所から、国から、性別から、学歴から、自由になりたい。