『戦争の世紀を超えて』 森達也 姜 尚中

戦争の世紀を超えて

戦争の世紀を超えて

戦争の世紀を超えて』 森 達也  姜 尚中
 ブクログ 『戦争の世紀を超えて』

相変わらず、森達也の本には、感服してしまうのだけれど、今回はそれに加えて姜 尚中
 いや、これは読まずしてどうする!
 なんて豪華な対談なんだ!

 しかし、この無知な私には少々眠気を誘う・・・。

 が、もちろん内容は最高に素敵なのです。
 自分の無知さと、そして新たな歴史の見方、歴史のつながりをしっかりと見せ付けられました。
 あぁ、東京裁判についてとか、大東亜共栄圏がどれだけ朝鮮戦争に関連するのかとか、あまり、考えたこと、なかったなぁ・・・。
 アウシュビッツとかについては考えるのに・・・。

 アウシュビッツ、イエドヴァブネ、市ヶ谷記念館、韓国の戦争記念館 等々に行っての二人の対談。
 

 その瞬間に何かが駆動したというよりも、むしろ何かが止まった瞬間に、人は普段ならとてもできないような残酷なことができる。

 残酷な殺戮や、虐待、それを日常の一環の中で起こっていたということ。そしてかれらは、一様になぜ、あんなことをしたのかわからないという。そして、孫をかわいがる良いおじいさんになっている。 そうなるには、二つのメカニズムがある。

一つは、意識的な忘却。
 もう一つの理由は、戦場や虐殺の中では何かの回路が駆動するのではなく、とまっているからこそ、この感覚は後になってもうまく再現できないんです。その瞬間に回路がとまり、つまり主語を喪失してしまっているからこそ、この感覚が欠落して、今の自分からは隔絶してしまう。

 ホロコーストの写真。 累々と死体が積み重ねられている。ちょっと観るに耐えないような惨たらしい死体が。 そのすぐ傍らで、ソビエト軍に解放されたユダヤ人の女性たちが、これから自分たちの故郷に帰るというので、与えられた食事を本当に楽しそうに食べている写真。

ただ陰惨な被害者の形だけの写真であればまだしも、そういう現実を知るのはつらいことです。 つまり、異常な状態が異常と思えなくなる何かがあるように思えるのです。」

人間はとても環境適応能力が高い。だからこそここまで繁栄できたのだけど、でもこの適応は、言い換えれば麻痺なんです。例えば人間は、自分の死に対しては圧倒的な麻痺を起こしながら日々をすごしている。

個が共同体に帰属して主語を喪失したとき、他者への想像力を失うことで恐怖が発動し、善意や正義をエネルギーにしながら殺戮が始まり、すべてが終わってから唖然とする。人間は有史以来、そんなことをずっと繰り返してきた・・・

 あえて極論を言えば、僕が知りたいのはユダヤではなくナチスです。被虐ではなく加虐です。なぜなら連鎖をとめたいから。虐殺されたユダヤの民を主語にすれば、確かに怒りや悲しみなどの情は発動しますが、結局はフォビアとヘイト、嫌悪と憎悪だけが残ります。加虐する側への思いをはせない限り、つまりナチスの心情や営みを想像しない限り、彼らのモンスターかは進み、フォビアとヘイトだけが輪廻し、僕らはまた同じことを繰り返します。 

僕はだからこそ、歯を食いしばってでも、無理をしてでも、戦争や虐殺の特異性を普遍化しながら、自分たちの問題にしていかねばならないと思う。表象不可能性に対してみて見ぬ振りをすれば確かに楽にはなれるけど・・・

 その意味では、今日見たアウシュビッツの展示のコンセプトは、その歯の食いしばり方がちょっと違うんじゃないかというのはありますよね。 

 「アウシュビッツは過去になりきれていない。」